河合師範 「信心の基本を学ぶ」①

信心の基本を学ぶ
 
今日は難しい話ではなく、功徳を受けない信心のコツの話をしに来た。

 この間、悲惨な話を間いた。ある婦人部が家庭の問題で悩んで1000万遍をあげたが、解決しなかったので落ち込んで寝込んだというです。先輩が心配していって見たら、「こんなに拝んでも良くならない。御本尊の馬鹿!」と拝んでいたそうです。形は信心強盛でも心が不信だから解決しなかった。「あなたは不信ですよ。」「いや、私は信心強盛です。」「でも不信じゃない」「じゃぁどうすればいいの?」「いつまでにどう解決したいですか?そう決めて祈ってご覧なさい。」と言われて、そう決めて祈ったら2週間で解決したそうです。

 唱題ではなく祈りが大事。婦人部はよく唱題されます。立派です。唱題会も良いが、自分と御本尊は1対1だから、きちんと祈れば叶う。唱題のための唱題では何も叶わない。10時間唱題会なんてやらないほうがいい。あれは拷間の一種だから。

 個人がやるのは何時間やっても良い。自分が決意して祈るのは良いが、みんなを縛っちゃいけない。これは先生の指導。リレー唱題会も割り当てでやっていますが、あの功徳はどこへ行くんでしょうか?また、100万遍あげて落ち込んでる人が婦人部にはよくいます。信仰とは祈ること。頑張るための信仰をしてはいけない。婦人部は頑張っています。立派です。でも全然変わっていない。これからは「頑張ります!」と言ってやるのはやめましょう。「頑張ります!」「頑張りましよう!」「でも変わりません!」だから、信仰は頑張るためにやるのではない。

 変わるためにやるもの。何が変わるのか?生活が変わり、生命が変わり、環境が変わる。変わるための信仰。頑張ってれば変わるのではない。変わるために頑張るべきなんです。「頑張ります!」ではつまらない。「変わりましょう!」「変わります!」「変わりました!」これを『信心の三段活用』と言う。こう言っても、皆さんは帰りに「頑張ります!」と言って帰るでしょう。なかなか身についた習性は抜けない。

 信仰というのは、行動の因果ではない。ただ頑張ればいいのではなく、一念の因果、どういう一念で頑張るか、その一念に功徳がある。頑張っても結果のでないのは一念が間違っているから。行為は正しい。一念が間違っていれば空回りになったり、功徳がなかったり、マイナスになることもあり得る。心こそ大切とよく言われる。ただ頑張ればよいと言うのは間違っている。一念の因果だから。一念を定めで頑張ることです。生活の方程式は、行き先を決めて、予定を立てて、行動するから、目的地に到着する。行き先,予定を決めないで、何となくぐるっと回って帰ってくるのは散歩。何となく信心している人はお散歩信心。気分転換程度、やらないよりはまし。でも変わらない。

 東京都内は規制があって、昼間は大型トラックは通り抜けできない。夜中に時速120~130キロで高速道路をぶっ飛ばして行く。土曜日の夜は暴走族も飛ばしているが、これは違う。大型トラックは行き先・予定があるから飛ばしでいる。暴走族は行き先・予定もなく飛ばしているだけ。信心も同じ。「頑張ります!」と言って頑張っている人の車を『宿命の暴走族』と言う。婦人部はほとんど暴走族。男子部は勤行をしないで頑張っているが、これを『活動の暴走族』と言う。頑張ってもちっとも変わらない。行き先・予定を決めて突っ走らなければいけない。何をいつまでにどうするか。これが当面の行き先と予定。自分のこと、家族のこと、仕事のこと、組織としてのこと、何項目でもかまわない。具休的にいつまでにこうしようと決めること。その上でそれを御本尊に強く祈って必要な行動をすれば必ず結果がでる。決めで祈り、祈って動くこと。意外とこれを決めないで頑張っている。婦人部が祈っているのは成果だけ。変わろうと思っていない。だから功徳が出ないから行き詰まってしまう。変わろうと決めて、祈って動けば結果がでる。信心は簡単です。

 どうしたらいいかと祈っている人がいるが、全く意味がない。交番へ行って「どこへ行けばいいのでしょうか?」と聞いているようなもの。答えがない。御本尊が何か決めるのではない。自分が決めて祈るからそうなる。「こうしたい!」「こうなりたい!」と祈ること。必ずそうなる。「困った!御本尊!以上終わり!」簡単です。これを『南無』と言う。南無というのは、「生命を任せます!」と言うこと。「お願いします。あとはよろしく!」これで良い。でも結構任せていない人が多い。「お願いはしてみます。でもだめだろうな。」と祈っている。だからそうなる。願い通り。できないと決めたら御本尊不信。だめだと決めたら御本尊不信、自分の中の甘さも御本尊不信。願ってお任せ。「お願いします!あとはよろしく。」これでよい。信仰というのは、無理だから祈る。方法がないから祈る。常識で不可能だから祈る。方法があれば祈る必要はない。やればいいんです。道がいないから祈る。それが南無。そう御書に書いてある。「湿れる木より火を出し、乾ける土より水をもうけんが如く強盛に申すなり」と。「“湿った木を燃やしてみせる、砂漢から水を出してみせる”と強く祈るんだよ!」とおっしゃっている。「不可能を可能にするのが信仰だよ!」とおっしゃっている「お願いはしてみます。でもだめだろうな。」と祈っている。これを『半南無』と言う。半信半疑は不信だから叶わない。「だめでしょうね。」とその通りになる。

 一昨年の4月に、創価大学の女子学生が来た。「語学の勉強に海外に留学したいんですけど、家庭の事情で行けそうにありません。」と言われたので、「親に頼んでもだめなら御本尊にお願いしたらどうですか?無理だから祈るんですよ!これから祈れば叶いますよ!前が断崖絶壁で道がないんですから。祈れば橋が架かるように道が開けますよ。」と話をした。すると去年の2月15日に、「3月から1年間、アメリ力へ自費で留学することが決まりました:あの時、祈ったら橋がかかっちゃいました。不思護ですね。」と言うから、「だから妙法と言うんですよ。」と言った。不可能を可能にするから妙法と言う。頭で考えても判らないから妙法と言う。無理を承知で祈るんです。だめだから祈る。方法がないから祈る。方法がないから祈る。そうすると道が開ける。道はないのだから探さないこと。だから祈って道を作ればいい。借仰は力一ナビの世界ではない。カーナビというのは道がないところへは行けない。道がなかったら飛行機かヘリで行けばいい。道がなくても祈っていけばいい。簡単です。

 3年前にある婦人が来た。「主人がガンであと3ケ月の命と言われた。治るでしようか?」と聞かれたので、「わかりません。簡単に治るなんて言えません。でもよく戸田先生が、“医者にかかって治るものは医者にかかれば早く治る。医者が見放したらもうこっちのものだ。もう御本尊しかないと決めたときから治り始めるんです。”とおしゃっていた。もう御本尊しかないということは、自分の力で治すしかないということ。そう決めて祈った時に自分の持っている生命力と智慧が湧くんです。仏界が出て来るのだから。弱さを出すから病気になる。その根源は宿業だから。謗法に汚染された命の癖が重い病気になる。強さを出せば病気は治る。仏界です。最高の生命力を出せば治って当たり前。そういう面で病気は治るか治らないかではない。治すか治さないか。本人次第、決意次第。医者も「重い病気にかかった人が、“病気が治ればいいなあ”とか“治りたいなあ”とか決意の弱い人は治りにくい。“絶対治すぞ!”と決意すれば早く治る。」と言っている。これは信仰に関係ないが、信仰も同じ。“治ればいいなあ”では治らない。“いつまでに治そう!”と決めたときから治り始める。」と話をした。ちょうど1年後に、ご主人と2人で来て、「病院へ行って“お父さん!もう無理だそうです。無理だから祈りましょう。だめだから祈りましよう”と祈ったら、治っちゃったんです。無理を承知で祈ると利きますね。」と言っていた。それが信仰です。

 一昨年4月に奈良に行った。会合終了後に50歳前の圏婦人部長さんが来て、「関節リュウマチで足が痛くて歩けない。医者にかかっても治らないんです。」と言っていた。「もしかして、治らないと思っていませんか?」と聞くと、「思っています。」と言う。「それじゃぁ治る訳がない。“御本尊様、治りませんよね。”と祈ってるんだから。願い通りです。御書に“南無妙法蓬華経は獅子吼の如し如何なる病障りをなすべきや”とあるじゃないですか。“ただしリュウマチを除く”とは書いてありませんよ。」と話をした。「医者で治せないから信心で治すんでしょ。治らないでも治しなさい!」と言ったら、「治します。」と言って帰っていかれた。次の日、その婦人から「昨日から痛みが止まりました。」と電話があった。約半月で治ったそうです。治らなかった原因は治らないと思って拝んでいたから。決意して祈るから治り始める。だから病気は治るかではなく、治すかどうかです。決意して強く祈れば必ずいい方にいく。
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by hakodate0711 | 2012-11-15 18:07 | 河合師範