徒然なるままに書いてます

by hakodate07

河合師範御書講義③

教学は信・行のあり方を学ぶ

そうゆう面で先生の「伸一会」での指導、「観心本尊抄」に学ぶ
のなかに「教学の姿勢」については全部述べられています。
あれは「伸一会」の指導ではありますけれど、男子部全員が本当に、
何回も読んで実践していかなくちゃいけないと思うんです。
先生はこう言われた「信心というものは分かったと思ったら増上慢なんだ」
よく戸田先生がいわれたのは「御書が分かったといったら増上慢だ、
わかんないと言ったら謗法だ」といわれた。どっちでも駄目なんですね。
分かろうとしていく中に信心があると言われたのです。分かったと言っちゃ
いけない、分かろう、分かろうとしていく中に信心があるということなん
ですね。先生が「信心から昇華された本当の教学であるならば、自ずから
悩める友、悲しむ友に正法を教えていこうという折伏を行じていくのが
当然である。教学は、あくまでも正しい"信・行"のあり方を学び、
実践するためであり、一生成仏、広宣流布の為にあるのです」
と言われてます。だからいつもいうように「学」と言うのは、「学」ために
あるのではないんです。
単に「学」ためではないんです。「信」「行」を学ぶためにあるんです。
信・行・学、とある。「信」で大事なことは、「何を」「なぜ」「どう信ずるか
」と言うことです。「行」で大事なことは、「何の為に」「どう実践するか」と
言うことです。
だから、教学とは「信」「行」を学ぶとこう読むんです。「学」と言うのは、
「理論」を学ぶんじゃないんです。「信」行」を学ぶんです。信心・実践の
あり方を学ぶんです。学ぶのはあくまでも「実践」の為なんです。信心を
深めて実践するために「学」ぶんです。「理論学習」ではないんです。
「信心学習」なんです。その学んだことによって、それが「信」が深まりバネに
なっていかなければ学んだことにはならないんです。いつもいうように、
男子部で御書学習会をやりますね、御書学習会に来た部員さんが、
どうゆう風に感じて帰るかが大事なんですね。分かったかどうかでは
ないんです。どう感じて帰るか、「今日の話は良く分かった。早く帰って寝よう」
と言うのが失敗なんですね。「話は良く分からないけれど、とにかく信心し
なければ駄目だ、題目をあげなければ駄目だ、折伏しなければ駄目だ、」と
「決意」して帰ったら大成功なんです。
そういう面では、「会合」はあくまでも「発心」の場でなくてはならないんです。
ということなんですね。下手すると「発心」の場ではなくして「重荷」の場に
なんかにしちゃったりしてね。
がっかりして帰ることが多いんですよね。これじゃ意味がないわけです。
そういう面で、「教学」というのはあくまでも、「信・行」を学ぶんであって、
その事が「一生成仏・広宣流布」につながっていかなくちゃいけない。
信心と実践のバネになっていかなくちゃいけない。「御書」を読むたびに、
自分の信心を見つめて「これじゃいけない」と「発心・奮起」していかなかったら、
「御書」を読まなかったと同じだと、先生は言われています。そういう面で、
御書を拝読していかなくちゃいけないと思うんです。
[PR]
by hakodate0711 | 2012-12-06 12:29 | 河合師範