法華経の兵法② (高校時代の話)

皆様、こんばんは
今日は「高等部の日」です
私は高校生の頃は勤行、唱題はしていたものの、この頃はまだ
創価学会員ではなく内徳信仰をしておりました
(詳細はブログの2012年 12月 10日の大悪をこれば大善きたる~私の入信経緯~で)

高校生の頃、色々悩みはありましたが、最大の悩みは「勉強と進路」でした
勉強してても思うように成績は伸びないし、下に弟がいるため、「浪人はさせない」と
言われていたので、もう背水の陣の気持ちで「ご本尊様、〇〇大学に行かせてください」
と祈って努力したところ、なんとか進学できました(汗)

どうしたらいいかと祈っている人がいるが、全く意味がない。
交番へ行って「どこへ行けばいいのでしょうか?」と聞いているようなもの。
答えがない。御本尊が何か決めるのではない。自分が決めて祈るからそうなる。
「こうしたい!」「こうなりたい!」と祈ること。必ずそうなる。
「困った!御本尊!以上終わり!」簡単です。これを『南無』と言う。
南無というのは、「生命を任せます!」と言うこと。「お願いします。あとはよろしく!」
これで良い。でも結構任せていない人が多い。「お願いはしてみます。でもだめだろうな。」
と祈っている。だからそうなる。願い通り。できないと決めたら御本尊不信。
だめだと決めたら御本尊不信、自分の中の甘さも御本尊不信。願ってお任せ。
「お願いします!あとはよろしく。」これでよい。信仰というのは、無理だから祈る。
方法がないから祈る。常識で不可能だから祈る。方法があれば祈る必要はない。
やればいいんです。道がいないから祈る。それが南無。そう御書に書いてある。
「湿れる木より火を出し、乾ける土より水をもうけんが如く強盛に申すなり」と。
「“湿った木を燃やしてみせる、砂漢から水を出してみせる”と強く祈るんだよ!」と
おっしゃっている。「不可能を可能にするのが信仰だよ!」とおっしゃっている
「お願いはしてみます。でもだめだろうな。」と祈っている。これを『半南無』と言う。
半信半疑は不信だから叶わない。「だめでしょうね。」とその通りになる。
(ブログ012年 11月 15日 河合師範 「信心の基本を学ぶ」①より)

悩みを具体的に、素直に祈ってそして、その上で、努力すれば叶います
祈らずに、「ああしよう」「こうしよう」とか考えると策に溺れてしまいます
まずは、「法華経の兵法」です
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by hakodate0711 | 2013-06-07 22:10 | 御書