徒然なるままに書いてます

by hakodate07

海の文化と村の文化⑧ 於保哲外先生(ドクター部)指導

その奥の法則を「不思議法則」と勝手に名づけたんです。
どういう法則かというと、たとえば、困っている人のため、家族のため、
また、学会活動のため、広宣流布のため、世界平和のため、
世の中の正義のために、戦う。だけど我慢して、自分を殺して、すなわち、
自分を粗末にしてやる人は、福運を失う。したがって、自分を粗末にしているように、
人からも粗末にされるようになっていくという法則なんですね。
「私さえ我慢すれば、私さえ耐えていれば、いつかこの苦労が実るときが来る。
それまでの辛抱だ」。「陰徳あれば陽報あり」なんだからと。やればやるほどひどく
なるんです。これでもかこれでもかというくらい、ひどい目に遭うんです。
つまり、これは陰徳にならないんです。どうしてかというと、妙法の当体を殺している
からなんです。同じ事をやっても自分自身が喜びながら、楽しみながら、
自分の命を輝かしながらやることは、これは福運になっていくんです。
したがって、自分を大事にしているように、人からも大事にされていく。
ちょうど、今月のSGIグラフ(2000年5月号)の中で奥様のことを池田先生が
おっしゃられています。いつも奥様は微笑まれている。「幸せだから微笑むので
はない。微笑んでいくことが幸せの因になっていくんだ。幸せだから微笑む、
幸せの結果として微笑むんじゃないんだ。どんな大変なときも、そこでにっこり
笑っていく、その命に福運が増していくんだ。」という意味の一節がありましたが、
まさに、不思議法則です。
たとえば、「折伏すれば開ける」「新聞啓蒙すれば幸せになる」また、
「財務に何桁に挑戦すれば幸せになる」。こういうのを餓鬼道と言うわけです。
見返りを求めている。したがって、やっても開けなかったら恨みになってしまいます。

菩薩道というのは違うんです。大聖人は「自他共に喜ぶなり」といわれています。
有名な徳勝童子の譬えがありますね。

みんながお釈迦様に供養している様子を見て、僕も何か供養したい。
でも、何もさしあげるものがないから、土饅頭をこねてさしあげた。その功徳で
阿育王に生まれ変わることができたという話しです。
ところで、もし、このとき、徳勝童子が、土饅頭をお釈迦様にさしあげれば、
後で功徳がある。それを期待して土饅頭をさしあげる、という取引のような
気持ちでやっているとしたら、その心には、福運はつかないでしょう。
真心から喜んでしていく。その命に福運がつくんですね。ギブアンドテイクでは
ないんです。いわゆる自己犠牲精神じゃないんです。

一生懸命、自己犠牲精神で頑張っていればいつか功徳が出てくるだろう
というのは間違いですね。この不思議法則。自分を輝かせながら生きて
いく方と、自分が我慢していく方と、池田先生はどっちでしょう?
明らかに前者なんですね。喜んでやってらっしゃるからあんな詩が書けるの
でしょう。嫌々、苦しみながらでは、あの写真は撮れないでしょう。

(会館の壁にある池田先生が撮られた花畑の写真を指差しながら)
池田先生の写真を見てみてください。先生の写真を見ていつも思うんです。
あれを見ていると、ちょうど女子部や婦人部が「先生!」って言っているのと
同じように感じません?あの花々が。我々が撮るとなかなかああいう感じに
ならないですね。花がただそこに咲いているって感じになるんです。

しかし、先生の写真には、訴えかけてくるものがある。どうしてだろうと考えました。
そしてつくづく思ったんです。法華経というのは「喜ぶ経典」なんですね。
池田先生は喜んでいらっしゃる。喜びの生命(いのち)に自然が感応しているん
ですね。その喜んでいる自然を撮っている。だから、「自然との対話」と
名づけられたんですね。

この話をある芸術部の人にしました。すると、その方が以前、先生と会食した時、
先生が「みんなにはわからないかもしれないけれど、僕は自然と話ができるんだよ。
その対話の写真なんだよ」とおっしゃられたそうです。
この不思議法則。不思議というのは妙。法則は法。すなわち、妙法なんですね。
したがって、妙法の当体を粗末にする人は、福運を失うんです。妙法の当体を
輝かせる人は、福運を増していくんです。現実にどういう行動をとっているかと
いうことは大事です。しかし、自身の本心がどっちで生きているのか。
自分の生命を輝かせ、楽しみながら生きる方向なのか。自分を卑下し、
追いつめていく方向なのか。その生命の奥底がどちらに向いているかが
さらに重要なんですね。
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by hakodate0711 | 2013-06-26 21:12 | 於保先生(ドクター部)指導