誤れる「仏ごころ」

かつて、ある新聞紙上に、数人の作家が信教における寛容について、
仏教、キリスト教それぞれの立場から自説を述べていた。
 仏教徒である一人は「仏ごころ」について言及し「なにがあろうと怒ることなく、
すべてを受け入れる寛容の精神である」として「週刊誌などで批判されている
他者を批判する仏教者は、まだ修行が足りない」などという意味のことを述べていた。
 実はわが国では本来「仏の慈悲深い心」である「仏ごころ」が、ともすれば情に流され
易い「情け心」「すべてを受け入れる寛容の精神」といった意味で用いられてきた。

 しかし、これは「仏ごころ」---慈悲のはき違えも甚だしいもの、と言えよう。
 か つて仏教を広く西洋に伝えた仏教学者はこう述べている。
「差別面、分別面ではあくまでも正しく自分を押し立てて動かず、邪に対しては断固として
闘ふのが仏教である。この自主性を失っては仏教はないのである」
 詳しい論議はおくとして「仏ごころ」とは、一面、決して悪を許さぬ峻厳な心なのである。

 第二次世界大戦中、軍部に迎合して怨敵退散の名目で祈祷を行ったにもかかわらず、
戦後何の反省もしない信念なき僧侶たち。彼らの言も自らの責任を逃れるために、
誤った「仏ごころ」を強調したものだ。

 これに連なった日顕宗の僧侶たちも、過去の所業をひた隠しにして、あたかも仏のように
振舞おうとしているが、次々と真実が明るみに出たのである。
 私達は誤った「仏ごころ」を排除し、邪悪に対しては断固として闘う毎日でありたい。

(参考文献:仏法の見方考え方)
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by hakodate0711 | 2013-07-16 22:37 | 日顕宗(悪)僕滅