徒然なるままに書いてます

by hakodate07

慈悲魔とは

情に厚く、慈悲深い心を、俗に「ほとけ心」とたたえる。が仏法では、その人情、
慈悲心につけいる魔があることを教えている。
 その名を「慈悲魔」首楞厳経(しゅりょうごんきょう)に説かれるこの魔、衆生の
心に一分の慈悲心があるのに乗じて、その心に取り入る。あわれみの情を
いたずらに募らせ、是非善悪の判断を狂わせる。

 日蓮大聖人は、かの極楽寺良観など当時の小乗を弘める法師を
「慈悲魔と申す魔・身に入って」(御書526頁)と喝破されている。
 良観が道路を開き、橋をかけ医療施設設けるなどの社会事業をおこし、
当時、世間の尊敬を集めていた事は、あまりにも有名である。   
しかし事実は幕府の権力者と結託し、関所や木戸を設置しそこで関米や
人別の銭を賦課した。
 庶民からしぼり取った金で社会事業を行い、世間の名声を得る一方で、
また私財を蓄えていた。

 慈悲等の行為を通じて、人々の慈悲心に訴え渇抑の心を起こさせる。
 一見「善」に見えながら、小乗に執着させて成仏の大法に背かせるがゆえに、
その本質は正法破壊の「極悪」。まさに「魔」の働きにほかならない。
 広宣流布とは、仏と魔の間断なき戦いである。

 ここでは慈悲や人情も、その為に正法を見失えば敗北の因となる。
ゆえに正法正義への厳格な判断が肝要になる。正法破壊の魔とは徹底して戦う----
この強靭な一念に護法の功徳も生まれてくる。”魔を能く破る勇気”ーーーー
ここにこそ、真の仏心がある事を忘れまい。

(参考文献:仏法の見方考え方)


 「日顕宗なんて相手にするな。彼らはだまされて可哀想だ。
聖教新聞の座談会であそこまで叩くのはどうかと思う」と言うのはまさしく「慈悲魔」に
おかされた姿に他ならないであろう。
 しかし、その魔に誑かされていると言うのは、なかなか本人は気付かないものである。
 だからこそ「紛然(まぎらわしく)と競い起こる」というのであろう。ここでは正法正義への
厳格な判断が肝要であると言われている。
 そしてその判断基準は個人の経験や考えではない。あくまでも「先生のご指導」であり
「御書」を判断基準としなければならない事は言うまでもない。

とここまで指導を抜粋させて頂きましたが
これ本当とか思われる方いるかもしれませんが、
「慈悲魔」って「仏教哲学大辞典」にちゃんと載ってるんですよ
私、調べて驚きましたから
日顕宗とは、また関係のない話なんですが、私が昔読んだ本に
アフリカのある貧しい国にドンドン支援していったらその国の人たちが
支援をあてにして全く働かなくなってしまったというのがありました。
慈悲もまた、与える相手ややり方を間違えば恐ろしい大きな魔になってしまいます。
そのために、上記の指導にある通り「先生のご指導」であり、「御書」を判断基準に
しなければならないのです。
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by hakodate0711 | 2013-07-16 22:57 | 日顕宗(悪)僕滅