徒然なるままに書いてます

by hakodate07

長崎原爆の日~何故、広島と長崎だったのか?~

皆様、こんばんは
今日は、被爆68年となる「長崎原爆の日」です。
原爆投下の時刻の11時2分、港近くの立体駐車場にいた私も
サイレン音に合わせ、ここでもまた黙祷しました。

今日は、原爆について調べ、私の拙い文章ですが少々まとめました

①何故、原子爆弾が作られたのか?
当時研究が始まっていた原子爆弾をナチス ドイツが保有することを恐れ
先に原爆を成功させるためにアメリカ、イギリス、カナダが
原爆開発・製造のために、科学者、技術者を総動員し原爆が作られました
これが世に言う「マンハッタン計画」です。

②なぜ日本だったのか?
ドイツは、1944年11月にすでに原爆製造を中止していました。
アメリカもマンハッタン計画を中止にするか、見合わせてもいいはずでしたが
アメリカは、原爆投下の目標をはじめから日本と決めていました
その理由は、「原爆が不発だった場合、日本人は原爆の研究をしていた
ドイツ人ほど、不発弾から原爆の秘密を見破ることはないから」ということ
また、アメリカ、イギリスの首脳に、有色人種に対する偏見があったことも
大きな原因でした。

③最初の目標は「京都」だった・・・・
日本の目標都市として、大きな工場や、軍事施設があった「小倉」「広島」
「新潟」「京都」の四都市が挙がっていました。
第一目標は地形的に盆地であり原爆の威力の効果を確認するには最適である
「京都」でしたが、歴史が古く文化財の多い都市であり、終戦後の日本との関係
を考え京都に原爆を落とすことに対して強烈な反対があり、目標から
はずされました

④「広島」の理由
連合国の捕虜収容所をもたないとの理由で広島が第一目標になったようです。
軍都、広島は、明治より軍事上の重要な位置にあり、中国大陸との交通の便もよく
瀬戸内海を控え、大陸からの攻撃にも直接遭う危険の少ない、軍事上の拠点として
軍事施設が次々とつくられてきました。
また、宇品港が造られ、軍の物資や兵隊を運びました。
昭和20年当時、広島には、9万人近い軍人と軍属がいました。そして
昭和20年6月頃には市民も残らず防空体制に組み入れられ、広島市全体が一つの
大きな軍事施設となっていました。
また、地形的にみても、広島は山に囲まれデルタの街で、爆発の被害を最大限にする
という理由からも、原爆投下の目標都市として第一番に狙われたのです。


④「長崎」の理由
長崎については、三菱重工長崎造船所、世界最大の戦艦「武蔵」等が作られ、
軍事的な意味からも重要な町でした。
しかし、当時長崎の人口は約25万人と、アメりカ軍にとっては、原子爆弾の威力を
確めるには、少し小さすぎる町だったこと、地形的に不適当な問題がありました。
しかし、京都が外されてことによって代わりに長崎が原爆投下地の候補に
浮上しました。
8月2日の原爆投下作戦命令書には、攻撃する日を「8月6日」にすること、
第1攻撃目標を「広島市中心部」、第2攻撃目標を「小倉市中心部」、
第3攻撃目標を「長崎市中心部」とし、投下条件として、目視投下のみとしています。
これは、原爆が爆発した時の様子を、記録するという必要性からでした。
8月6日には、第1攻撃目標の広島の原爆投下において、その威力が凄いもので
あることが確認されました。
そして運命の8月9日、第2攻撃目標である九州小倉に向むかったボックスカーは、
天候のために、目標を第3攻撃目標である長崎に急遽変更となりました。

参考資料
ヒロシマ「平和への出発(たびだち)」創価学会婦人平和委員会編(第三文明社)他

広島、長崎は戦争の終わりではなく、核の脅威の時代の始まりだったのです・・・・・
それに対し、私たちが、「何ができるか」を考えた時に、まずは
「知ること」から始めなければいけないのです・・・・
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by hakodate0711 | 2013-08-09 23:54 | 日常