人のことはほっとくか祈るか、どっちかしかない

皆様、お疲れ様です。
というか、書いてるうちに日付跨いでしまいました・・・・
もう、3月ですね・・・
早いもので、今年も六分の一が終わっちゃいましたね・・・・
バタバタしてるくせに来週末、明治座と東京芸術劇場に行く予定を
立てました・・・
「自分の首絞めてる?」と聞かれそうですが
私、自分に楽しみ与えてあげないとやる気をおこさない人間なので(笑)

さて、先日の「愚痴りたくなった時どうしたらいいの?」の続きの記事において
「それでも、まだなんとなく納得いかない」「モヤモヤする」という方のために・・・

 正しくても怨嫉した方が罰を受ける。させた方ではなく、した方に罰が出る。
そう御書に書いてある。「それが本当でも嘘でも」と書いてある。
怨嫉する理由が何であっても、同志であれば功徳はマイナスになって出てくる。
相手が間違っていれば、相手は因果の理法で裁かれる。人が裁くのではない。
法が裁く。相手の成長を祈ってあげること。そうすれば自分も相手も良くなる。
「幹部のくせに」と言わないこと。変な幹部もいるが、成長を祈ってあげること。
「幹部のくせに」と言ったら怨嫉になる。

 正しくても怨嫉になってしまう。成長を祈ってあげれば相手は変わらなくても
自分は良くなる。相手がやるからこちらも怨嫉をやり返すことを『差し違え』と言う。
これもよくあるが、両方とも功徳が消えてしまう。人のために功徳を消してはつまらない。
人のことはほっとくか祈るか、どっちかしかない。感情をぶつければ怨嫉になる。
御本尊に祈ってあげれば自分も相手も変わる。

河合師範 「信心の基本を学ぶ」②より

また河合師範「信心の基本を学ぶ」② かた抜粋しましたが
今回は上記の「人のことはほっとくか祈るか、どっちかしかない。」に
ついて掘り下げてみます。
「ほっとく」というのは、十四誹謗(松野殿御返事 御書1382ページ 
「教学の基礎」創価学会教学部編 324ページ)にある、
正法信受している人を軽蔑する「軽善(きょうぜん)」、
正法信受している人を憎む「憎善(ぞうぜん)」、
正法信受している人を妬む「嫉善(しつぜん)」、
正法信受している人を恨む「根善(こんぜん)」
と「正法信受している人」へ持ってはいけない感情として戒められてるものに
当てはまらない方法を河合師範が示したのだと思います。
なので「もう無理」「もう生理的に考えるのも無理」
「考えると余計に嫌になっちゃう」等考えたくもないという場合には
この方法もありかと思います。

さて「祈る」場合の別の河合師範の指導が
あったので再度ご紹介(前回は、この記事の中で紹介)

ある女子部から手紙がきました。
職場の嫌な同僚が辞めますようにって祈っていいかって聞いてきたことのある子です。
相手の成長を祈り始めると、その人が、ある朝の朝礼で突然号泣しながら
「もう人の嫌がることはしない」と言い出したそうです。
相手の成長を祈ったから相手が変わったんです。
みんな結構「あの人は変わらないよ」と思って祈らないもんです。

1998・2・14門真文化会館 河合師範の指導から抜粋

人間指摘すると、その指摘が正しくとも反抗したくなり
言い合いとなり話がこじれ余計悪い方向に向かっていく時があります。
池田先生の指導の境涯革命五原則から考えてみても
「良くなるように」「成長しますように」と祈るのが一番の近道かと思います。
ご本尊様経由で相手の生命に訴えるので、相手も無視はできませんから(笑)
「南無妙法蓮華経」の一言だけでいいんです、祈ったことに変りはありませんから







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by hakodate0711 | 2015-03-05 00:19 | 怨嫉の話