「怨嫉」の傾向と対策

皆様、おはようございます。
夜、一度アップしましたが、大分足りないなと思った部分があったので
加筆して再アップました、長くなっております(汗)

昨日は、ラグビーW杯 日本が南アフリカに勝利!に
朝から「もんげ~!!!」(妖怪ウォッチ)と叫んだりしてました(笑)
(本当は、スクールウォーズネタを絡めながら、先にこちらを記事に
しようと思っておりました、こちらは、後日です。)
そして、座談会に出かけまして、為になる話を沢山聞けました。
そこで、「組織っていいなぁ」(「和風総本家」のナレーションで(笑))と
思いました。

さて、最近よく見聞する「怨嫉」について・・・・
自分の経験や、人の話等で組織から離れたり、信心が離れる、脱会者の傾向を見てると
「過去にやられたことが許せない」
「どうせ、こいつに言っても、何しても変わらないだろう」
「自分が正しい、相手が間違ってる」等と聞こえてきます。
言い分は多々あれど、「怨嫉」から信心を離れた人が多いような気がします。
ここで、怨嫉について復習を・・・

「怨嫉」とは、十四誹謗(松野殿御返事 御書1382ページ 
「教学の基礎」創価学会教学部編 324ページ)のうちの
正法信受している人を軽蔑する「軽善(きょうぜん)」、
正法信受している人を憎む「憎善(ぞうぜん)」、
正法信受している人を妬む「嫉善(しつぜん)」、
正法信受している人を恨む「恨善(こんぜん)」です。

「怨嫉」について新・人間革命において記されてる部分を・・・・

伸一は、厳しい口調で語っていった。
「『松野殿御返事』には、十四の法華経への誹謗(ひぼう)、つまり十四誹謗について
記(しる)されています。誹謗とは、”そしる”ことですが、そのうちにの最後の四つは、
軽善(きょうぜん)、憎善(ぞうぜん)、嫉善(しつぜん)、恨善(こんぜん)
といって人に対するものです。ご本尊を持つ人を、軽蔑したり、憎んだり、嫉妬したり
恨んだりすることです。一言(いちごん)すれば、同志への怨嫉(おんしつ)であり、
いがみ合いです。
 日蓮大聖人は、十四誹謗の罪は、極めて重いので、「怒(おそ)る可(べ)し怒す可し」
(御書1382ページ)と、戒められている。怨嫉というのは、自分の功徳、福運をけして
しまうだけでなく、広宣流布の組織を破壊していくことになる。だから怖いんです。
 皆が、心から団結できない。どうも、組織がすっきりまとまらない。皆、頑張っているのに
功徳を受けられないでいる―そうした組織をつぶさに見ていくと、必ず、怨嫉問題が潜んでいます」

  なぜ、ご本尊を持(たも)った人同士が、時には幹部同士が、怨嫉し合うことが生ずるのか。
  大聖人は、「十四誹謗も不信を以(もつ)て体(たい)と為(な)せり」(御書97ページ)
と御指摘になっている。
 皆が仏の使いであり、地涌の菩薩であることや、生命の因果の理法など、妙法を信じることが
できないところに、その根本的な要因があるのだ。

(新・人間革命26巻 「法旗」の章 159ページ~160ページ) 

「怨嫉」について河合師範の指導を・・・

正しくても怨嫉した方が罰を受ける。させた方ではなく、した方に罰が出る。
そう御書に書いてある。「それが本当でも嘘でも」と書いてある。
怨嫉する理由が何であっても、同志であれば功徳はマイナスになって出てくる。
相手が間違っていれば、相手は因果の理法で裁かれる。人が裁くのではない。
法が裁く。相手の成長を祈ってあげること。そうすれば自分も相手も良くなる。
「幹部のくせに」と言わないこと。変な幹部もいるが、成長を祈ってあげること。
「幹部のくせに」と言ったら怨嫉になる。

 正しくても怨嫉になってしまう。成長を祈ってあげれば相手は変わらなくても
自分は良くなる。相手がやるからこちらも怨嫉をやり返すことを『差し違え』と言う。
これもよくあるが、両方とも功徳が消えてしまう。人のために功徳を消してはつまらない。
人のことはほっとくか祈るか、どっちかしかない。感情をぶつければ怨嫉になる。
御本尊に祈ってあげれば自分も相手も変わる。

河合師範 「信心の基本を学ぶ」②より

「怨嫉」怖いですね~恐ろしいですね~
ここで、ありがちな怨嫉のループ例を
A(恨まれる人の仮名としてAさん)を恨む

自分の状況が悪くなる

こんなに、悪くなったのは、Aのせい、もっと恨む

ひょっとしたら「怨嫉かも」と気が付く

しかし、この悪くなり続けた状況、無駄にした時間をどうしたらいい?
Aにされたことより、恨んで失敗し続けたたことや無駄にした年月、
もう取り返しつかない・・・もう、戻れないと・・・

「怨嫉」地獄に陥ります。
そして、「怨嫉」と指摘しても頑なに「自分は正しい、相手が間違ってる」
「自分は、違う」と言い張って話が聞こえていないことも多いです。

Aが問題ある人なら「Aの生命が変って、良くなりますように、成長しますように」と
河合師範の指導通り、祈ればいいのです。
Aについて祈るのが辛ければ、Aのことをひとまず置いておく方法もありますが、
しかし、別な方法として「問題ある人を更生させて、成長しますように」と祈る方法です。
アレです、人参が嫌いで人参のサラダやグラッセが食べられないなら
「カレー」や「筑前煮」にして目立たないようにして、味を誤魔化して食べる
それでも食べれないなら摩り下ろして、混ぜ込んでハンバーグにして食べるような感覚です。
絶対に、この時Aを恨んだり、罰が下ったりするのを祈ったりしてはいけません、
あくまでも「良くなりますように、成長しますように」と祈るのです。
Aが間違っていて、治らない場合は、Aは因果の理法に裁かれますから。

無駄にしたと思ってる年月は取り戻せます。なぜなら・・・
「過去のことは振り返らないこと。良くなればいい。過去のことが活きてくるから。」
河合師範 「信心の基本を学ぶ」②より
「過去のことは振り返らないこと。良くなればいい。過去のことが活きてくるから。」
の方の例として、ウン年前に、今の業界に入り知識がゼロな上に、今までロクな社会人
経験がないという引け目を持っていた私に、あるお客さんは「逆に、経験がな方がいいんだわ、
変な癖がつくと面倒だから」と言ってくれました。
その人の思いやりもあったと思うのですが、実際、私が働く業界は本当に変な癖ががないほうが
やりやすいというのも事実です。
無駄や失敗も意外な成功に結びつくように動くのです。

怨嫉すると、自分は地獄の生命に陥り、周囲も変らずに余計に悪くなる、皆不幸・・・
逆に、「生命変わって、良くなりますように、成長しますように」と祈れば
自分は仏界、皆幸せ・・・・
さぁ、どちらを選びますか?

関連記事
河合師範 「信心の基本を学ぶ」②



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by hakodate0711 | 2015-09-21 06:59 | 怨嫉の話