皆様、こんばんは
ご無沙汰しております(汗)
先日の更新直後から、かつてないほどバタバタが重なっておりました・・・・
「いいんです、色々片付けば楽しいことがたくさんあるさ~」
「冬は必ず春となる~」と思いながら過ごしております。
早く、心置きなくお出かけしたいです・・・・・

さて、今日も河合師範の指導を・・・・・
 なお、日顕を呵責することについて、「そんなひどい言い方をしなくてもいいのに」とか、
「悪口ばかりいっているのは、いやだ」などと思う人がいたら本質を見誤っています。
 日蓮大聖人は、謗法を責(せ)める時には、「鬼畜(きちく)なんどと下(くだ)しても
其(そ)の過(とが)有(あ)らんや」(御書1282ページ)と仰せであり、邪義によって
人々を不幸にする悪侶に対しては「鬼畜である」と責めても言い過ぎではない、
と教えられているのです。そうでなければ、邪義に誑(たぶら)かされた衆生を救うことが
できず無慈悲になるからなのです。
 極悪である日顕とその一派を呵責(かしゃく)するのには、どれほど厳しく責めても
責めすぎることはありません。それを、「悪口」などととらえるのは、悪を悪と認めていない
ことになります。ちょうど、悪人を裁くために、検事が犯罪を糾弾することを「悪口をいっている。」
というのと同じで悪の味方をすることになってしまいます。
 牧口先生は、「悪人(あくにん)の敵をなりうる勇者でなければ、善人(ぜんにん)の友とはなりえぬ」
と教えています。悪と戦う勇気がなければ、人々を救うことはできないのです。

(暗黒の富士宗門史 日顕宗の淵源を切る  河合 一より) 

これを読みまして、昔、私がある幹部の方から教えてもらった指導(河合師範ではないですが)をご紹介させて頂きます。

聖教新聞の「自由座談会」で、日顕等のことを容赦なくいうから
会員の方の中には「会員じゃない人も読む新聞だから・・・」とか「仏法は慈悲なのに、
なんであそこまで言うんだ」とか「ちょっと言いすぎじゃないか」とか「イヤだ」とか思う人がいる。

しかし、大聖人は「力あらん程は謗法をばせめさせ給うべし」と仰せである。
「呵責(かしゃく)し駈遣(くけん)し挙処(こしょ)」の「挙処(こしょ)」っていうのは、
相手の罪をあげつらうことである。
日顕の悪事を具体的にあげないと真実がわからない、
あれを読んでイヤだと思う人もいるかもしれない、そしてえげつないと思うかもしれませんけれども、
あれは別に聖教新聞の編集部が、えげつないのではなくて、日顕がえげつないんです。
私達が気をつけなければならないのは、中途半端な慈悲心です。
学会員の方は人がいいから、慈悲心がつい出てしまう。
人間のこの慈悲心につけこんで、その心に入り、哀れみの情を募らせて善悪の判断を
狂わせる働きを、仏法では「慈悲魔」といいます。
「慈悲魔」……「小乗大乗分別抄」(御書全集P526)という御書にも出てきますが
もともと学会員の方々は、人がよく慈悲深い方が多いので、魔がそこにつけこんで
「もうそんなに日顕等の悪口を言わなくてもいいではないか」と思わせて悪を見逃がせる。


要約ですが、上記のような指導を受けました。河合師範の指導と共に本質をついた指導です。
よく、「聖教新聞で日顕等を悪くいってるのかわからない」という方がいたら
上記の指導を参考にして頂ければご理解いただけると思います。
また、慈悲魔については、当ブログ2013年7月6日の「慈悲魔とは」を参考にして
頂ければと思います。
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by hakodate0711 | 2014-03-03 21:54 | 日顕宗(悪)僕滅