法華経の兵法

なにの兵 法 よりも法華経の兵法をもちひ給うべし
   (へいほう)        (へいほう)  (たま)
「諸 余 怨 敵・ 皆 悉 摧 滅」の金言むなしべからず、
(しょよおんてき・かいしつさいめつ)
 兵 法  剣  形  の大事も此の妙法より出でたり、
(へいほうけんぎょう) (だいじ)        (い)
ふかく信心をとり給へ、あへて臆病にては叶うべからず候。
          (たま)   (おくびょう)         (そうろう)

四条金吾殿御返事 1192ページ

(通解)
どのような兵法よりも法華経の兵法を用いていきなさい
(法華経薬王品(やくおうほん)第23に説かれる)「あらゆる怨敵は、皆滅びる」
との金言は、決して空(むな)しいはずがない。兵法や剣術の真髄もこの妙法
から出たものである。深く信心を起こしなさい。臆病では何ごとも
叶わないのである。

弘安2年(1279年)10月23日、日蓮大聖人が58歳の時に身延で
著されたとされる。別名を「法華経兵法事(ほけきょうへいほうのこと)」とも言う。
四条金吾は信心を貫いたために、何者かに、命まで狙われた。しかし
無事に難を逃れ、そのことをご報告したことに対する御返事である。
大聖人は、金吾が無事だったのは、法華経の行者を守護する諸天善神の
働きであり、いよいよ強盛な大信力(だいしんりき)を出していくよう激励。
そして、策や方法よりも信心が大切であると指導された。

「法華経の兵法」とは、わが胸中から、何ものにも負けない仏界という
「不屈の生命力」を取り出し、諸天善神をわが勝利のために動かす
「祈り」と「行動」の異名である。
池田先生は「『師のために!』『広布のために!』
この一念を定めたときに、青年の本当の力が出るのです。あえて私の体験
から言えば、これが、『法華経の兵法』です」と指導されました。

またまた、御書をひもとく 要文123選から引用しております。
すいません・・・・(汗)
また、聖教新聞(2012年12月9日)の今週のことばも

厳寒のなかの大奮闘を 諸仏も諸天も讃嘆!
 「法華経に勝る兵法なし」
 いよいよの信力、行力で 新時代を勝ち開け!
とあります。

本当にその通りです。
師走の忙しくあわただしい時期こそ、いつもより来てます「魔」が・・・・
私もここ、数日「魔」に惑わせられてました・・・・・
いきなり来る「魔」もいれば、徐々に忍び寄っていく「魔」もあり
「魔は天界に住む」といって喜びの中にも「魔」が住んでることが
多々あります。
「魔で~す」と心の扉をノックして来る「魔」はいないわけです
居たらある意味凄いですけどね(汗)
そういう時だからこそ、一層「法華経の兵法」をもって油断せずに進みたいものです
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by hakodate0711 | 2012-12-14 23:28 | 御書

河合師範御書講義⑦

決めて・祈って・動けば必ず結果が出る

ある壮年部の方のところに訪問したときに、仏壇の脇に決意が
書いてあったんです。なんて書いてあったかというと「お題目はなるたけ
上げる・できたら折伏をする・なるたけ早く就職をする」と書いてあったんです。
立派なように見えるけれども、全部決意になってないわけなんです。
「お題目はなるたけ上げる」というんですから、「出来るだけ上げる」というん
ですから、「出来なければ上げない」ということですから。
「できたら折伏をする」は「できなければしない」ということですから。
そこで、決意と目標があいまいで実践があいまいでは結果は出ませんね。
と、話をしたそうです。それから、「お題目を1日1万遍、1ヶ月で就職しよう」と
決意したそうです。そうして祈って折伏が出来たのです。
1ヶ月目に前よりいいところに就職できたのです。
決意と目標があいまいで実践があいまいでは結果は出ないんです。
決意と目標を明確にしてきちっとそのとおりにやれば結果が必ず出るんです。
決めて・祈って・動けば・結果が出る。というのが信心の方程式なんです。
決めて・祈って・動いて、結果を出すというのが戦いなんです。どんな戦いでも、
決意して・目標を決めて・真剣に祈って・実践して・結果を出す、というのが
戦いになるんです。
なんとなく動いて活動をしていればいいんじゃないんです。
これでは活動ではあるけれど戦いにならない。戦いというのは結果を出すことです。
勝たなくてはいけない。だから、決めて・祈って・動いて
結果を出す。というのが戦いになるんです。なんとなく動いているのが活動。
結果を出すのが戦いなんです。折伏したけど出来なかった。
ということは戦いになっていなかったということです。
と、いうことは、どこかがあいまいだったんです。決意があいまいか、
祈りがあいまいか、実践があいまいか、だったんです。だから結果が
出なかったんです。これは絶対に間違いありません。
これをもう一度点検しなければいけない。決意と目標が明確で、真剣に祈って
動いて結果が出ないわけ絶対にないんです。戦いとはこうゆうことなんです。
個人においても同じなんです。決意と目標が明確にして頑張った人は結果が
出ます。結局、決意と目標があいまいで、祈りが弱くって実践があいまい
では結果は出ないんです。この事を教えてあげるのが指導なんです。
どう決意させるかということが問題なんですね。ですから、相手が決意して
頑張れば結果は絶対出るんです。だから、決意と目標を明確にして
頑張っている人、決めて・祈って・動いている人、を前向きの信心というんです。
なんとなく頑張っている惰性の人、これが横向きの信心。不信で頑張って
いる人、後ろ向きの信心というんです。行き詰まっている人は必ず惰性か
不信なんです。頑張っているようだけど不信か惰性なんです。だから、
信心が行き詰まっているから行き詰まっているんです。
それを、「決めて」「祈って」「動く」前向きの信心に変えさせればいいんです。
そうすれば、必ず変わってくるのですね。
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by hakodate0711 | 2012-12-13 12:34 | 河合師範

河合師範御書講義⑥

《本文》
法華経の文に難信難解と説き給うは是なり、

《講義》
ですから、信心をすると難が起こるというのも過去に謗法が
あるから、今、難にあっているんです。
だから、難にあうことによって過去の謗法の罪が軽く消えている
んです。戸田先生は「難を呼び起こす信心」といわれた。それは、
早く借金を返せるのだから、難を喜んで受けて借金を返して
しまえばいいんです。そのように難信難解と説かれるのはここ
にあるんです。

《本文》
この経をききうくる人は多し、
まことに聞き受くる如くに大難来れども
億持不亡の人は希なるなり、

《講義》
法華経を聞いて信心をする人は多い、だけど、<まことに聞き
受くる如くに>今度は、御書に出てくるように、信心をすれば
「三障四魔」「三類の強敵」が起こると経文に書いてある。
<聞き受くる如くに>言われた通りにということです。現実に
言われた通りに「難」が起きてくる、「宿命」が出てくると<億持不亡の
人は希である>ということなんです。池田先生はこう言われた。
「御書に書いてあるではないですか、難がある。三類の強敵が
出てくると書いてあるではないですか、御書に書いてあるのになんで
疑うんですか、御書に書いてある通りではないですか。日蓮大聖人が
おっしゃられたその通りだと思うことです」といわれました。だけど、
現実に自分の問題になってしまうと疑ってしまう。
だから「境涯」が開けないんですね。<聞き受くる如くに>いつも聞いて
いるように大難が出てくるよということです。それでも忘れずに持つ人は
希である。と、言うことです。

《本文》
受くるは・やすく持つはかたし・さる間・成仏は持つにあり、

《講義》
<受くるは・やすく>御本尊を受持することはやさしい。生涯信心を
貫くことは難しい。
広布功労賞を受けられた指導部の方が見えました。年配の方なんです
けれど、御自身の病気のことで相談に見えました。「借金の残りがある
から取りに来たんですね。返してしまうしかないじゃないですか」と話を
しました。《南妙法蓮華経は獅子吼の如し、いかなる病障りをなすべきや
》という御書がありますね。と、話をするとこの方が「この御書はいつも
指導のときに使っていました」というんです。人には指導するのは
簡単だけど、自分の身になるとやはり惰性になっているんですね。
この御書の通りにならないということは、「《獅子吼》ではないんじゃない
ですか《豚吼》ぐらいじゃないんですか」といったんです。ブウブウいって
頑張っているんですからね。こんなにやっているのにってね。
結局惰性であり不信になってしまっているんですね。
だから、過去にどんなに頑張ったって、広布功労賞をもらったとしても、
過去の功績であり、今の信心ではない。今の信心が退転して不信だった
らば、結局、成仏は出来ない。だから、今こそ、今までも頑張ったのだから、
今ここでもう一回宿命転換していくんだ。と、こう決めることが大事だ。
という話をしました。その方が「確かに信心が惰性になってました。」と
いわれてました。それから、病気を治し元気になったそうです。だから
信心を貫くことは難しいんです。指導部の方が信心に行き詰まっている方が
時々あるんです。飛行機でも着陸が大事なんです。着陸寸前でおっこちて
はいけないんです。こうゆうのを片桐型信心って言うんです。着地に失敗して
はいけないんですね。着地しなくちゃだめなんです。着地するときに事故の
7割が起きるんですから。信心も同じなんです。最後に悔いがなかったと
いう人生じゃなくちゃいけない。
そうゆう面で、確かに《受くるはやすい》んですね。《持つはかたし》なんですね。
生涯貫くことは難しいんです。《さる間・成仏は持つにあり》持つって事ですね。
これをもっと身近な問題にすると《受くるはやすい》これは、決意するという
ことですね。決意することは簡単なんです。でも、決意を持続することは難しい。
たいてい、途中で、ごはさんで、になるでしょ。ですから、結局結果が出ないんです。
実証というのは決意の持続にあるんです。決意したことをやり通せば結果は
必ず出るんです。決意の持続が実証なんですね。実証が出ない、
結果が出ないということは、決意があいまいか、持続しなかったかどっちかなんです。
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by hakodate0711 | 2012-12-10 20:49 | 河合師範

 大事には小瑞なし、  大悪  をこれば大善   きたる、
(だいじ)(しょうずい)(だいあく)(起)  (だいぜん) 
すでに、大謗法・   国にあり大正法     必ずひろまるべし
    (だいほうぼう)     (だいしょうほう)

大悪大善御書 1300ページ

(通解)
大きな出来事の起こる前には小さな瑞相はない。
大悪起これば大善が来るのである。すでに大謗法が国に充満している
のであるから大正法は必ず弘まるであろう。

いつ、誰に与えられたお手紙は不明ですが、大聖人様が身延に入られて
以降迫害に遭った門下への激励のお手紙との推察されます。
大謗法が国に充満に充満し、大聖人門下に厳しい迫害が競い起こってる
現実(大悪)は、必ず大正法が弘まること(大善)の前兆であるから、
嘆いてはならないと激励されている。

またまた、すいません
御書をひもとく 要文123選から引用です(汗)


実は、今日、私の入会記念日です。
何回目?という質問は年齢がわかるので一切受付ません(笑)
私は、生まれてすぐに入会した学会員ではなく、小学生の時いじめに
遭って発心し18歳の時に自分の意思で入会しました。
母は学会員でしたが、父は学会員ではなかったので
(今は入会しております 11月30日の日記参照)入会は自分のことを
判断できる歳になってからということになっておりました。
そのため、私の兄弟は学会員ではありません。

「何の苦しみがないのが幸福なのではない。どんな苦しみをも喜びに
変えられる自分自身の境涯に幸福はある。その鍛えのなかに充実があり、
価値がある。苦労が大きい分だけ成長も大きい。
悩みが深い分だけ、乗り越えた喜びも大きい。難は即悟りであり、
大難即仏界(だいなんそくぶっかい)である。」
という池田先生の指導があります。

あの時、いじめられなかったら発心せずに、「今の私」は存在しないのかなと
思っております。
だから、現在はつらくても、これは明るい未来が来る直前だと思います。
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by hakodate0711 | 2012-12-10 20:40 | 御書

絶対無事故 

さきざきよりも    百千万億倍・    御用心あるべし
        (ひゃくせんまんおくばい)(ごようじん)
四条金吾殿御返事 1169ページ

(通解)
(今は身に危険がある時であるから)以前よりも百千万億倍、
用心していきなさい

無事故こそ、一切勝利と幸福の根本である。

池田先生のご指導に
「不借身命(ふしゃくしんみょう)とは「無理をする」ということではない。
無理は続かない。仏法も道理です。道理にのっとった賢明な信心即生活
でなければ反価値になってしまう。それでは『創価』学会とは言えない」
「“信心しているから””幹部だから”自分は大丈夫だというのは『慢心』です」

「”信心じているから、なんとかするんだ。勝つんだ。”
”信心しているからこそ、用心して絶対無事故にするんだ”。
その自覚がなければ危険です」

(御書をひもとく 要文123選引用 )

とおっしゃっています。
確かに、「信心してるから大丈夫~」「公布のために動いてるから心配ない~」
「なんとかなる~」は危険です。

私、今日家から目と鼻の先の曲がり角、出会い頭で正面衝突しそうに
なりました(汗)本当に数㎝差で、「あぁもう私駄目だ」と思いました・・
吹雪いてたのもありますが、家の近所ということで気を抜いていたんだと
思います。
タイヤは交換してるのですが、道は完全に凍結してるので
他にもヒヤッとした場面にも遭遇しております。

いつ、何事があるかわかりません。事故だけでなく健康にも気を付けて
行きましょう!特に睡眠は大事です、徹夜はもっての他です!
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by hakodate0711 | 2012-12-08 23:10 | 御書

河合師範御書講義⑤

現世安穏とはどんな悩みや、問題にも負けないこと

信心してても「難」がある「問題」があるということは「現世安穏」
といっても「悩み」が無くなることではないんですね。どんな「悩み」や
「困難」に負けないで、それを「プラス」に変えていけるということが
「現世安穏」なんです。「悩み」が無くなることじゃない。「負けなく」なる
ことであり、どんな「悩み」も「プラス」に変えていけるということが
「現世安穏」なんです。
戸田先生はこうおっしゃった。『日蓮大聖人様は佐渡に流罪されて、
いつ飢え死にするか、凍死するか暗殺されるか分からない。
ある意味では地獄です。そうゆう状況の中で日蓮大聖人は、「日蓮は
流人なれど喜悦はかりなし、日本一の富めるものなり」とおしゃった
のです。そうして、開目抄とか観心本尊抄を書かれてる。
安心しきっていらしゃるんです、何にも心配がない、そうでなければ
、あのような大論文が書けるわけがない。と同じように、信心すると
いうことも悩みがなくなるんじゃないんだ。どんな悩みが起きたって
根本は安心しきっていけるということではなかろうか。病気になった。
「さあ、御本尊を拝めば大丈夫だ」「問題が起きた、さあ、信心で解決
しよう」とこうゆうふうに、なれば根本は安心しきっていけるというこ
となんだ。』と良く言われたんですね。牧口先生はこう言われた。
『病気をした。これは罰だ。と、何故だったんだろうと悩んでもしょうがない。
それだけでは解決はしない。そこでこの病気を必ず変毒為薬してみせる。
健康という大福運を開いてみせると確信をして、決意して信心を続けていく
ことが大事なんだ。そうすれば、病気が治るだけではなくて、全快した
ときには以前より健康になるのが変毒為薬の妙法の功徳なんだ』と
いわれた。病気したら前より健康になればいいんです。治っただけじゃ
いけないんです。前より健康にならなくてはいけないんです。
失業したら前よりいいところに就職すればいいんです。そして、
同じ事で二度と悩まない。これが宿命転換した証拠なんです。
仕事の事でまた悩む、しばらくしてまた悩むというのは、宿命転換し
ていないんです。ですから、宿命転換すれば、同じ事で二度と悩まなく
なるんです。それが、大事なんです。病気が治っただけでは、マイナスが
ゼロになっただけです。ゼロでは駄目なんです。プラスにならなくちゃ
駄目なんです。前より健康にならなくちゃいけない。失業したら就職ができた。
これは、マイナスがゼロになっただけなんです。
前よりいいところに就職しなくちゃいけない。プラスにならなくちゃいけない。
しかも、同じ事で二度と悩まないことが、宿命転換した証拠なんです。
でないと、また同じ事を繰り返す。これじゃいけないんですね。

これは、だるまですね。耳をつけると、起き上がりこぼしになります。
ダルマは謗法だけど、起き上がりこぼしは謗法ではない。
前の第六東京井上男子部長(当時)の井上県長が島根県にいったでしょ。
そこで、謗法厳禁とやかましくいったんです。そこの、大B長、大B担(当時)
のお店の名前がダルマ食堂といっていた。長年ダルマ食堂で来たわけです。
そこの、大B長、大B担が「ダルマ食堂」って謗法でしょうかと、井上県長に
指導を受けに来た。そして、井上県長から私(河合師範)のところに電話が
かかってきたんです。「ダルマ食堂」って謗法でしょうかと。「ダルマ食堂」って
名前そのものを拝むわけではないから謗法とは言えないかもしれないけれど、
でも、邪宗の教祖の名前をつけることはないでしょ。「弘法食堂とか、
法然食堂とか名前をつけるか」とかつけますか?。それと、おんなじ事です
から、それで、井上県長(当時)が「大福食堂」と名前をつけてあげたそうです。
ダルマというのは、行き詰まっている姿ですからね。手も足も出ないんですから、
縁起のいいものではないんですよ!。これは、起き上がりこぼしです。
起き上がりこぼしは、触ればゆれるけど、ほうって置けば必ず安定しますね。
それは、起き上がりこぼしの底に重たい重心が入っているから、触ればゆれるけど、
最後は安定するんです。この、重心が重いほど安定度は増しますね
重心が上の方にあるとひっく り返ってしまいますね。仏界の重心を重くすれば重く
するほど、何があってもすぐに元に戻るんです。ですから、命の重心を重くすれば、
何があってもゆれが少なくなってくるのです。そして、根本は安心しきっていける。
そうゆう面ではそれをどう乗り越えていくかということが問題なんです。
負けなければいいんです。悩みがあることは恥ではない。信心しているものとして、
いつも、同じ事で悩んでいるのは恥じなんです。
そして、その宿命に振り回されているということなんですね。結局それは、
命が弱いからなんです。 (氷山の絵)このように、氷山があります。
氷山の一角といわれるように、水の上に出ているのはほんの一部なんですね。
水の上に出ている部分を悩みとします。この部分だけが宿命ではないんですね。
宿命の現われに過ぎないんです。人の生命は宿命の固まりなんですね。
水から出た部分が悩みなんです。この悩みを方法で解決したとします。
病気になった、医者で治した、悩みはなくなった。ところが、氷山は上の部分が
なくなると、また、下の部分が出てくるんですね。今度は、家庭の問題であるとか、
そのうちに、氷山の下の部分が膨れてくるんですね。きりがないんですね。
ですから、元を断たなければ駄目なんです。生命そのものを変えなければ、
悩みの形が変わるだけで、悩むことに変わりはないんです。その生命そのもの
弱い醜い命を、どうきれいにするかということが信心なんですね。だから、
悩みが起きた時がチャンスなんです。で、ある面では、悩みが出てきたと
いうことは、その人の宿命が出てきたわけですから、ただし、信心して出てきた
場合には、これは、解決する為に出てきたんです。ちょうど借金がある。
借金を返していないと取り立てに遭いますね。取り立てにあったような
もんなんです。戸田先生は「癖が出るのを罰という」といわれた。
この「癖」というのは、命の「癖」つまり「宿命の癖」が出るのを「罰」・「不幸」というのだ。
と。言われた。「罰」というのは「仏様」や「神様」があてるのではないんですね。
自分の中にある「癖」が出てくるんですね。ですから、「罰」は出るもんなんです。
バチが当たるのは太鼓だけ。その出方が問題なんですね。信心をしている
場合には「転重軽受」、(重きを転じて軽く受く)これを現代的に言うと
大型割引ということなんですね。どんなに信心頑張っても借金がゼロにはなら
ないんです。ですから、信心をしていて「悩み」が出てきたということは「転重軽受」
するチャンスなんです。ここに、百万円の借金がある。とても返せない、
十万円に負けてやるからすぐに払うかと言ってきたようなものなのです。
払ってしまえば、百万円の借金は無くなるんです。ですから急いで払って
しまえばいいんですね。払わないと結局差し押さえにあうんです。
だからチャンスなんです。ですから、「悩み」が出たときに百万円の借金が
十万円で済むんですから十万円払ってしまえばいいんです。
よし、チャンスだと「決めて」やれば「軽くすんで」後に「福運」が残るんです。
ですから、問題が出た時がチャンスなんです。そのように「決めて」「決めさせる」
しかないんです。そういう面で「命」が強いか弱いか、「命」が弱いから環境条件に
負けて悩みだらけになるんです。「命」が強くなれば環境条件に負けないで
環境条件を変えていけるんですね。結局全部「命」の問題なんです。
「命」の問題は「信心」の問題、「信心」の問題は「決意」の問題になるんです。
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by hakodate0711 | 2012-12-08 21:57 | 河合師範

今いる場所で・・・・

法華経を持ち  奉る    処を  当詣道場と云うなり
     (たも)(たてまつ)(ところ)(とうけいどうじょう)
 
 此 を去って彼に行くには非ざるなり、道場とは十界の衆 生の 
(ここ)(さ) (かしこ)    (あら)            (しゅじょう)
 
住処を   云うなり今  日蓮等の    類い南無妙法蓮華経を 唱え 
(じゅうしょ) (い) (いま)(にちれんら)(たぐ)           (とな)
 
 奉る  者の住処は     山谷曠野    皆    寂光土なり
(たてまつ)  (じゅうしょ)(さんごくこうや)(みな)(じゃっこうど)

此れを道場と云うなり
(こ)
御義口伝(おんぎくでん)781ページ

(通解)
法華経を受持し修行する、その場所を「当詣道場」というのである。すなわち、
この娑婆世界を去って極楽浄土の他土に行くのではない。道場とは十界の
衆生の住処をいうのである。いま、日蓮及び門下として南無妙法蓮華経を
唱える者の住処は、それが山であり、谷であり、広野であっても、いずこであれ
すべて寂光土すなわち仏国土である。これを道場というのである。

人間革命の為の修行の場所。それは、どこか離れた場所ではない。
今、自分がいる。まさにその場所である。

池田先生は、この御文を拝して
「大聖人の仏法の真髄は、『今いる場所で、必ず幸福になる』信心である」
「現実を離れて、遠い理想郷を求めるものではない。この世界で妙法を
広宣流布して、立正安国を進める。そしてわが国土を、光輝く寂光土と
していくのである」
と指導されております。

またまた、御書をひもとく 要文123選から引用しております
男子部教学室さんごめんなさい・・・・

私教学の2級試験の時、この御文でました・・・・
「当詣道場」を覚えようとしてガッツ石松さんの「OK牧場」にこじつけて覚えました
ものすごく、すいません・・・・

土・日、ものすごく行きたいライブがあるのですが、色々と立て込み
今はここを離れないので、ここで強く祈り、自分の果たすべきことを頑張ります(汗)
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by hakodate0711 | 2012-12-07 19:58 | 御書

河合師範御書講義④

この御書は、文永十二年の三月に日蓮大聖人が佐渡から帰られて
身延に入られた翌年のお手紙です。
文永十一年の九月、前年の九月に日蓮大聖人が佐渡から帰られ
て身延に入られた。そのことから四条金吾が一大発心をして主君を
折伏をします。主君の江間氏と言うのは念仏の強信者なんですね、
極楽寺良観の信者でもある主君を折伏して、そのことから、主君から
疎まれる。それから、同僚が全部極楽寺良観の信者ですから、裏で
策謀して、四条金吾に対する迫害が始まります。そうゆう迫害があったの
ですね。そうゆう事から四条金吾がおもわず、愚痴をこぼした。
「こんなはずじゃなかったのに」と愚痴をこぼした。その事を縁として
その報告を聞いた日蓮大聖人が、四条金吾を指導したのがこの御書
なんですね。

本文
四条金吾殿御返事 

御書全集1136頁 文永12年3月 54歳御作

此経難持の事、抑弁阿闍梨が申し候は貴辺のかた(語)らせ給う様に
持つらん者は現世安穏・後生善処と承って・
すでに去年より今日まで・かたの如く信心をいたし申し候処に
さにては無くして大難雨の如く来たり候と云々、
《講義》

悩み、問題が起きたときがチャンス

鎌倉に日蓮大聖人がいないあとは、弁阿闍梨日昭が鎌倉の中心者
ですから、その鎌倉の中心者の日昭がいうには、「あなた」が、四条金吾が
いうには、「持つらん」「法華経を持つ者は現世安穏・後生善処と承って」と
聞いていた。去年から「かたの如く」いわれた通り信心をしてきた。とことが、
「さにては無くして」現世安穏どころではなくて、「大難雨の如く来たりて候」
かえって信心を頑張ってきたら大難が雨の如く降ってきた。おかしいじゃないか、と、
つい「愚痴」をこぼしたのです。日蓮大聖人だったらそのようなことはいいません
けれど、相手が日昭ですから気安くつい言ってしまったんですね。
「真にてや候らん又弁公がいつわりにて候やらん」私にはとてもそのようなことを
いったとは信じられない。「真にてや候らん」ということです。
日昭がうそをついたのかもしれない。この事は本当なんですけれど、四条金吾を
かばってあげたのですね。「そのようなことはないと思うけれど」と日蓮大聖人は
おっしゃっているんです。「いかさま・よきついでに不審をはらし奉らん」ちょうどいい
チャンスだから、その不審をはらしておきましょう。これは、信心をしている人が
「疑問」を持った時 がチャンスなのです。また、問題にぶつかった時がチャンス
なんです。何にも悩みがないときはそう簡単に信心できないのです
。何か悩みに直面した時がむしろチャンスなんです。そうゆう事で、四条金吾が
「不信」を起こした、今、難にあっている、「チャンスだ」ここで「不信」をはらして
おかなかったら大変だ。あとで尾をひいてしまう、ここですっきりしておかなくてはいけない。
このようにおっしゃっているのですね、これが「指導」のコツになるのです。
「何かあった時がチャンスだ、よしここで、しっかり信心させよう。
悩みがなくて「チャランポラン」な信心をしていた人がいた。よしここでチャンスだ、
そうゆう風にこっちが決めるのです。「困ったな、あんなに題目をあげて折伏をして
頑張っているのに悩みが起きた」困ったなと思ってはいけないんですよ。
信心をしていて、色々なことにぶつかる。一つは、その人の持っている宿業が出てくる
のです。もう一つは、「信心がチャランポランな為に行き詰まる」ということがあるのです。
本質的には、全部自分の中に持っているものが出てくるのですけれど。
「行き詰まっている人」と言うのは、悩みがあるから行詰まっているのではないんです。
「信心」が行き詰まっているから行き詰まっていると考えるのが、正しいのです。
悩みがあろうと問題があろうと「信心」がある人は行き詰まりはないんです。
何にも悩みがなくても「信心」が行き詰まっているから、問題が出てきて行き詰まって
いるのです。そうゆう面で、その人の一念を「指摘」してあげればいいのです。
悩みの内容がどうのこうのと言うことは、あまり関係 がないのです。仕事の問題が
どうのこうのとか…………、信心をしている場合は、悩みの内容がどうあっても
指導は出来るのです。それは、相手の一念をただせばいいのです。
指導してあげればいいのです。その指導と言うのは「決意」させればいいんです。
「御本尊様」を拝めば解決するんだ、さあチャンスだ、宿命転換のチャンスだということを
相手に訴えて「決意」させればいいんです。それから「変わり」始めるのです。
うゆう面で「何かあったとき」がチャンスだということですね。
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by hakodate0711 | 2012-12-07 19:07 | 河合師範

河合師範御書講義③

教学は信・行のあり方を学ぶ

そうゆう面で先生の「伸一会」での指導、「観心本尊抄」に学ぶ
のなかに「教学の姿勢」については全部述べられています。
あれは「伸一会」の指導ではありますけれど、男子部全員が本当に、
何回も読んで実践していかなくちゃいけないと思うんです。
先生はこう言われた「信心というものは分かったと思ったら増上慢なんだ」
よく戸田先生がいわれたのは「御書が分かったといったら増上慢だ、
わかんないと言ったら謗法だ」といわれた。どっちでも駄目なんですね。
分かろうとしていく中に信心があると言われたのです。分かったと言っちゃ
いけない、分かろう、分かろうとしていく中に信心があるということなん
ですね。先生が「信心から昇華された本当の教学であるならば、自ずから
悩める友、悲しむ友に正法を教えていこうという折伏を行じていくのが
当然である。教学は、あくまでも正しい"信・行"のあり方を学び、
実践するためであり、一生成仏、広宣流布の為にあるのです」
と言われてます。だからいつもいうように「学」と言うのは、「学」ために
あるのではないんです。
単に「学」ためではないんです。「信」「行」を学ぶためにあるんです。
信・行・学、とある。「信」で大事なことは、「何を」「なぜ」「どう信ずるか
」と言うことです。「行」で大事なことは、「何の為に」「どう実践するか」と
言うことです。
だから、教学とは「信」「行」を学ぶとこう読むんです。「学」と言うのは、
「理論」を学ぶんじゃないんです。「信」行」を学ぶんです。信心・実践の
あり方を学ぶんです。学ぶのはあくまでも「実践」の為なんです。信心を
深めて実践するために「学」ぶんです。「理論学習」ではないんです。
「信心学習」なんです。その学んだことによって、それが「信」が深まりバネに
なっていかなければ学んだことにはならないんです。いつもいうように、
男子部で御書学習会をやりますね、御書学習会に来た部員さんが、
どうゆう風に感じて帰るかが大事なんですね。分かったかどうかでは
ないんです。どう感じて帰るか、「今日の話は良く分かった。早く帰って寝よう」
と言うのが失敗なんですね。「話は良く分からないけれど、とにかく信心し
なければ駄目だ、題目をあげなければ駄目だ、折伏しなければ駄目だ、」と
「決意」して帰ったら大成功なんです。
そういう面では、「会合」はあくまでも「発心」の場でなくてはならないんです。
ということなんですね。下手すると「発心」の場ではなくして「重荷」の場に
なんかにしちゃったりしてね。
がっかりして帰ることが多いんですよね。これじゃ意味がないわけです。
そういう面で、「教学」というのはあくまでも、「信・行」を学ぶんであって、
その事が「一生成仏・広宣流布」につながっていかなくちゃいけない。
信心と実践のバネになっていかなくちゃいけない。「御書」を読むたびに、
自分の信心を見つめて「これじゃいけない」と「発心・奮起」していかなかったら、
「御書」を読まなかったと同じだと、先生は言われています。そういう面で、
御書を拝読していかなくちゃいけないと思うんです。
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by hakodate0711 | 2012-12-06 12:29 | 河合師範

河合師範御書講義②

指導とは決意させること

その「指導」とは何かというと、結局それは「御本尊」へ向かわせること、
その人の「一念」を「御本尊」へ向かわせること、簡単に言えば「発心」させること
「決意」させること。「指導」とは「決意」させること、「発心」させることと言っていい
んですね。
その上で、いろいろなことを「教えてあげる」あるいは「実践させる」あるいは
「守ってあげる」事は必要です。根本はあくまで「指導」なんです。「指導が」
下手をすると今、出来なくなってる。
色々なことを教えたり、動かすこと、守ってあげることは出来るかもしれないが、
根本の「指導」が出来ないと人は育たないんですね。だから下手をすると幹部が
「運営上手」の「指導べた」になってしまう。
組織とか会合の「運営」はうまくなったけれども「指導」が出来ない、「決意」させる事が
出来なくなっているんですね。これが一番恐いことだと思うんです。
その「指導」というのは、結局、「御本尊」を拝もうと「決意」させる事であり、
その、前提として、信心とは何なのか?、何の為に信心するのか?
また、どうゆう風に信心すればいいのかが必要なんです。この信心の基本というものを
「御書」から「学び」その原理を一人一人のなかに打ち込んで、訴えて「決意」させていく
ことですね。これが「指導」になるんです。相手が「決意」して「実践」すれば必ず「成長」
するし「後に結果が残る」これが「指導」「訓練」なんです。
その結果として成果が出るんです。大事なことは、信心を「指導」することなんです。
「指導」の原則というのがあるわけです。それは「御書」の中にあるし、
また代々の会長の指導の中に全部含まれている。そうゆうものを本当に自分の
ものにして、こんどは、それを「実感」をして訴えていかなければいけない。
「理論」として訴えてはいけない。
「頭で分かった」、「頭で分かった」ということと「出来る」ということは別問題です。
「やる」ということと「結果が出る」ということは別問題なんです。だから、
本当に「結果」の出たものだけがちゃんと「やった」ということになるのです。
結果のでない活動をしてもしょうがないんです。そうゆう面で、折伏にしても、
結集にしても、どう結果を出すかということが一番大事ですね。
では、どうすれば「結果」が出るのかということです。
頑張ろう、これだけやらなくちゃならないということは沢山あるけれども、
では、どうすればそれを実践して、そして「結果」を出せるかということが大事に
なってくるのですね。簡単に言うと「信心」しかないんですけれども、
では、その「信心」とは何か?ということなんです。
だから、「信心根本で頑張ろう」という話はみんなしますね。「信心根本とは何か?」
という話はあんまりしないんです。一応「拝んで」「動いている」事が信心根本だと思ってね、
その割に「結果」が出ないんです。そうゆうのを「信心ポンポン」というのです。
信心がすっ飛んじゃっている場合があるんです。そうゆう面で「信心の基本」をもう一回
我々が、確認をして「実感し」「実践をして」「実感しながら」訴えていくかということが
大事だと思うんです。
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by hakodate0711 | 2012-12-05 12:41 | 河合師範